
このブログは経営ブログ、
今回の大震災で後の日本をどうするか、
残念ながら起こってしまった大震災、
しかし、日本人本来の和の心が目覚めつつあります。
素晴しい四季のある日本、
幕末の時代、吉田松陰は何とも素敵な指導者でした。
平成の吉田松陰はどこにいる、
やっと見つけました。
いろいろ経験されておられる町田先生、
今回は、2009年に書かれたものですが、
不平・不満の世の中ですが、
謙虚で誠実な町田教授の心意気、
何とも素敵です。
ありがとうございます。
平成の吉田松陰、
町田宗鳳(SOHO)氏、
広島大学の教授です。
素晴しい方です。
皆で学んで、行動する時、
素晴らしい学びはワクワク感が一杯です。
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<平成の松陰に学ぼう、その82>
素晴らしい日本の参謀との出会い、
平成の吉田松陰に学ぼうをお届け致します。
心の時代
曝し首になった私
NHK教育テレビの『こころの時代』も、七月放送分の四回目の収録が済んだところです。毎回、チャレンジですが、このあいだ収録が終わって、ふと思ったのです。「法然を語る」と言いながら、じつはそこで語られているのは、私自身の「値打ち」にほかならないと。
この番組で問われているのは、法然の思想なんかではなく、それをどこまで深く理解し、正確に語り得るかという意味で、私自身の実力なのです。それはベートーベンの名曲を演奏して、その結果を問われるのが、タクトを振る指揮者であるのと似ています。
二、三度の出演なら、ゴマカシも利くのですが、十二回ともなれば、弁明の余地がありません。テレビの画面を通じて、私のこれまでの人生体験と学者としての見識が、情け容赦もなく丸映しにされているのです。これは、とても恐ろしいことです。
素人の私が、きっかり60分という制約の中で、法然を語るというのは大変なことです。さらに、この番組には風景などの場面も使われることなく、ほとんどアナウンサーと私の二人のオジサンが坐っている場面だけで終わってしまいますから、視聴者は否応なく、その被写体をつぶさに観察することになります。
しかも運の悪いことに、『こころの時代』は今回からハイビジョン撮影に切り替わったので、私の髪型が少しばかり歪んでいても、あるいは前の晩に深酒して疲れていても、ぜんぶ克明に映し出されます。そして、八十万人から百万人の目線がそれを見つめているのです。それを曝し首と呼ばずに何と呼びましょうぞ。
半ば逃げ出したいような気分でいますが、かといって、逃げ出せるわけでもありません。私は私として、自分の宗教理解と人間理解双方における思慮の浅さを、そのまま曝け出していくより仕方ないのです。
そういう自分を隠すために、たとえ無難に建前だけを語るとしても、その逃げ腰の姿が私であり、あるいは反対に、少し無理をして過激な発言をしたとしても、その背伸びをする姿が私なのです。逃げ道はありません。
となれば、ほとんど「無の境地」で、私は残り八回の番組に臨むより仕方ないのです。その結果、私の発言に退屈をしたり、憤りを覚えたりする視聴者がいようとも、それは私の責任となります。
二度と、こんなに透明度の高い番組に出たくありません。できれば、民放のバライアティ番組にでも出て、タレントとまったく無意味な高笑いを繰り返して、高いギャラをもらったほうが、よほど分がいいのです。
あるいは、可憐な女子アナと古都を散策しながら、お寺でも訪ねて、歴史を語ったほうが、よほど楽しいと思います。
なのに、どうしてこんなギャラが安い上に、綺麗なお姉さんもまったく出て来ず、自分の底の浅さばかりが見え透いてしまう番組を私は引き受けてしまったのでしょうか。このエッセイを読まれた方は、後生ですから、私の出演番組は二度と見ないでください。
それがあなたにとっても、私にとっても、
いちばん幸せな選択だと思います。
(2009・7・1)