<教育環境はそんなに悪くはない>
このブログは経営ブログ、
今日本を元気にするためには、
教育改革が必要と何度も何度も
警鐘を鳴らしています。
格差という言葉は好きではありませんが、
変な格差は無いに越したことはありません。
それではどうするか、ワクワク学べる環境づくりが今一番大切です。
明治の時代事前ですと身分格差がありました。
今は格差、格差とマスコミは煽っているが、
本当にそうなのでしょうか、
自由化社会はもともと競争社会、
変な平等化が悪平等を生んでいるのです。
塾に行かなくても学校だけで本来は
十分のはず、ワクワク学べれば
環境は決して悪くはないのです。
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教育改革が必要と何度も何度も
警鐘を鳴らしています。
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明治の時代事前ですと身分格差がありました。
今は格差、格差とマスコミは煽っているが、
本当にそうなのでしょうか、
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山田教授も本来は希望の持てる国にしたいと考えていらっしゃるのです。
本来平成の時代、過去の時代と比べずっと自由なはず、情報に流されずに主体性を持って生きたいものです。
刺激的な数多くの論点
個々の論点は、いくつか興味深いものが多い。
肯定するかしないかは別にして、まさに「興味深い」といったところだ。
●リスクが一般的になった社会では、弱者がまとまりにくい
リスクと安全の境界が消失しリスクが普遍化してしまったために、リスクは「特定の人々に集中的に生じるのではなく、確率的に『ふりかかる』」(p.44)。「『弱者に転落するかもしれない』という意識だけでは、連帯することは不可能である。なぜなら、多くの人は『弱者に転落しなくて済む』と思っていて、実際に転落しない人がいるからである」(p.45)。
ぼくもそう思うのだが、これは、自己責任の強調とあいまって、不幸の「個人化」をもたらす。
ぼくは
●家族が格差の緩衝帯にならずにその拡大の契機となる
「強者(職業世界での)が強者を選び(夫婦の場合)、強者が強者を作り出す(親子の場合)、その対極で、弱者は弱者を選ぶ以外に選択肢がなく、弱者は弱者しか作り出せないという事態が生じている。つまり、家族は、格差を緩和するものではなく、むしろ、格差を拡大させるものとして機能し始めるのが、近年の特徴なのである」(p.66)。
ところで、山田は弱者・弱者連合について、「フリーター同士のできちゃった婚」を連発する。
●戦後教育システムはゆるやかな差別・選別制度だった
社会学者である山田自身がこの本の中で、教育学者たちが語る人間の発達の可能性の称揚などをウザく思っていることを吐露しているのだが、たしかに山田の論調はきわめて冷静――というか冷酷である。
人がぞっとするようなことを平気でいう。
その一つが、これだ。
人がぞっとするようなことを平気でいう。
その一つが、これだ。
戦後日本の教育システムとはゆるやかな差別・選別のシステム、パイプラインであり、受験のなかで「過大な希望」をリスクなしにあきらめさせていくのに適した制度だったという。どの学校へいけばどれくらいの人生が歩めるかというモノサシになっていたと山田は主張する。
ところが、山田によれば、現代ではこのパイプラインが疲労し、漏れが発生している。
たとえば、工業高校を出れば、昔は大企業の工場勤務という道があったが、今はそこの工場で正社員として働ける者は少数である。短大・女子大を出た女性も、一般職→結婚というコースが見えにくくなり、派遣への置き換えと、結婚相手たる男性正社員の数の激減と不安定化がおきている。――これが山田の指摘する現実だ。
この言葉もどきりとする言葉だ。
山田は、若者の不安定就労の原因について、不況説と若者しばられたくない説の二つを経済の構造的変化をみない謬論だとしりぞけたうえで、「九〇年代のニューエコノミーの進展」(p.117~8)だと述べる。すなわち「労働者が、専門的・中核的労働者と単純労働者へと二極化し、単純労働者部分が、非正規雇用のアルバイト、派遣社員等に置き換えられつつある。その影響が、若者たちに増幅した形で現れた姿が『フリーター』なのである」(p.119)とする。
山田は、若者の不安定就労の原因について、不況説と若者しばられたくない説の二つを経済の構造的変化をみない謬論だとしりぞけたうえで、「九〇年代のニューエコノミーの進展」(p.117~8)だと述べる。すなわち「労働者が、専門的・中核的労働者と単純労働者へと二極化し、単純労働者部分が、非正規雇用のアルバイト、派遣社員等に置き換えられつつある。その影響が、若者たちに増幅した形で現れた姿が『フリーター』なのである」(p.119)とする。
フリーターを「夢追い型」「やむを得ず型」などと分類することに、山田が「あまり意味がな」い、とのべるのは、そのような「主観的な差が重要なのではない」(p.124)からだ。「どのケースでも、自分が望む職(立場)に就いていないということが重要なのである」(同)。「いつか、自分の理想的な仕事や立場に就けるはず、と思いながら、単純労働者である自分の姿を心理的に正当化するのが、フリーターの抱く夢の本質ではないだろうか」(p.125)。
しかし、「門」の大きさが決まっている以上、「夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である」(p.127)と山田は冷酷に宣言する。そして冷徹な計算をするのだ。一生大学教員になれない院生が年1万人、一生大企業のホワイトカラーになれない大卒者が年数万人、一生中小企業の正社員になれない高卒者が年10万人、正社員と結婚できない女性が年20万人……こうやって膨大な数の「不良債権化したフリーター」が増えていく、と山田は指摘するのである。
OECDなどの学力テストで日本の子どもたちの学力が低下したのではないかと話題になったが、それを精査してみると、学力が二分化、二極化していたのだという。
果して今の子どもたちは、国連から警告をうけるほど受験漬けなのか、それとも「ゆとり教育」などといって勉強しなくなったのか、よくわからなくなっていた。
本書では、子どもの学力の二極化が指摘されている。
そして、「できる子ども」では熾烈な競争が用意されているが、「できない子ども」たちには無気力が広がっていることをデータは示している。そして後者の層の大量発生が、学力をじりじりと押し下げているのである。
そのほかにも、「刺激的な」箇所はたくさんあって、本書は読み飽きないであろう。
げんに、ぼくもこの本は、読み始めてからはあっというまであった。
ただし、それは共感したという意味ではない。
あちこちに違和感をいだき、それゆえに、刺激的な対話者としてこの本が登場したということである。
そのほかにも、「刺激的な」箇所はたくさんあって、本書は読み飽きないであろう。
げんに、ぼくもこの本は、読み始めてからはあっというまであった。
ただし、それは共感したという意味ではない。
あちこちに違和感をいだき、それゆえに、刺激的な対話者としてこの本が登場したということである。